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〈MARKAWARE〉、〈marka〉の2ブランドから生み出されるウエアには一点一点、物語が眠っています。
原料選びから紡績、製織、染色、縫製、プレス、加工に至るまで、それぞれのウエアが作られる背景や各過程を支える職人や工場、農園を紹介しながら、これから暮らしをともにする洋服により愛着を持っていただけるような情報を共有していくのが「PARKING MAGAZINE」。
アイテム1つずつに深い理解度を持って愛せる、好奇心を持った男性に贈るウェブマガジンです。

FACTORIES良質な服が生まれる場所と人。

Vol.03 カネキチ工業株式会社(前編)

Vol.03 Kanekichi Industries

May 25, 2018

ブランドの服作りを支える日本の工場や職人の もとを訪ね、生産背景を紹介していくこの企画。 今回、取材へと向かった先は和歌山県。 国内に数えるほどしか残っていない貴重な吊り編み機 を大切にメンテナンスしながら稼働し続け、 唯一無二な風合いのカットソー生地を生産する 「カネキチ工業」へと伺った。

大正時代に一大産地へと成長。 メリヤスの街と呼ばれた和歌山県。

スウェットにTeeシャツ、ソックスなど、今や私たちの生活には欠かせない平編みのニットアイテム。でも、じつはここ日本においてニットアイテム普及の歴史は欧米諸国と比べると浅く、およそ100年前。大正時代にニット生地の量産を可能にした吊り編み機がヨーロッパから日本へと渡ってきたことが始まりである。その当時からすればかなり革新的だったこの機械で、いち早く生地の生産に取り組んだ場所のひとつが和歌山県であった。

日本では平編みのニット生地の総称として“メリヤス”という言葉をよく耳にするが、これはポルトガル語やスペイン語で靴下を意味する“メイアシュ”や“メディアス”という言葉をもじったものらしい。伸縮性があり大きくも小さくもなることから“莫大小”と漢字表記をされることもある。和歌山市街を抜けて車で20分ほどの場所にある、国指定重要文化財の菩薩像が安置された観光名所のひとつ、紀三井寺の周辺には“メリヤス”という言葉を冠した通りがある。このエリアはかつて多くのニット工場が軒を連ね、生地を運ぶトラックが狭い道をひっきりなしに走っていたことから“メリヤス通り”と呼ばれ、県はおろか日本のニット生地生産の大半を担った重要拠点でもあった。そう教えてくれたのは大正9年からこの土地にメリヤス工場を構える「カネキチ工業」4代目代表の南方仁太郎さん。

「僕がまだ子供だったときは、この紀三井寺周辺は多くのメリヤス工場が稼働していて、住み込みで働く人たちのための社宅もたくさんあったので、近所の人のほとんどは工場で働いている人たちでした。今もうちを合わせて数軒大きな工場は残っていますが、その昔と比べればかなり減ってしまい街の様子も少し変わりました。とはいえメリヤス工場以外にもこの辺りには古くから続く水飴工場や、春に満開となる紀三井寺のきれいな山桜など昔から変わらない風景もたくさん残ったいい場所ですよ」。

南方さんに車で街案内をしてもらいながら工場へと向かう道中、昼飯にとおすすめのラーメン店に連れて行ってもらった。余談だが何を隠そう今、和歌山では柑橘類に並んで名産として人気なのがラーメン。話によると和歌山ラーメンには醤油のきいたさっぱり味と豚骨強めのこってり味という2つの系統があり、人気店ともなると全国からラーメンファンが足を運ぶほど盛り上がりをみせている。今回食べた「丸三」も地元の人たちから愛される名店で、ガツンと香る豚骨醤油スープが癖になる味わい。また、どこのお店にもテーブルに巻き寿司と酢締め鯖の早寿司が置いてあるのが和歌山ラーメンならではのスタイル。

「和歌山ではラーメン屋に早寿司が置いてあるのが当たり前で食前にひとつ、麺を食べ終わった後にスープのお供にひとつと食べていましたね。僕の持論ですが最近、お店の暖簾に和歌山ラーメンと書いてあるお店が多いですが、地元の人が好きな名店は「丸三」のように特に和歌山ラーメンとは謳っていない気がします」、とは南方さん。

話は逸れたが和歌山ラーメンを満喫して、いよいよ本題の工場へ。2020年で創業100年を迎える「カネキチ工業」は、吊り編み機が日本へとやってきた初期から機械を導入してニット編み地を生産する、歴史あるメリヤス工場である。特筆すべきは現在でも伝統を貫き、吊り編み機を使用して生地を生産し続けている、今や日本では数少ない貴重な工場であること。その吊り編み機でしか得られない生地の風合いは、今でこそデザイナーの石川俊介さんをはじめ、服作りに携わる多くの人を魅了しているのみならず、着る人たちにまで吊り編み機ならではのよさというのは浸透している。だがその仕上がりの良さが改めて認知されるまでの道のりは、決して平坦なものではなかった。そんな工場の歴史について南方さんと取締役の岡谷義之さんとお話していると、吊り編み機が辿ってきた歴史と深くリンクする興味深い話がたくさん飛び出してきた。

さまざまな時代の流れを乗り越えてきた、 「カネキチ工業」と吊り編み機の歴史。

大正9年に「カネキチ工業」へ、スイス製の吊り編み機がやってきた当初、主な生産は肌着となるニット生地。その昔、よく年配の人が着ているのを見たラクダ色の下着に使われていた生地だ。南方さんから見せてもらった和歌山県にまつわる歴史をまとめた本によると、大正初期は東京、大阪、名古屋がメリヤス生産の中心を担っていたが、「カネキチ工業」の創業年あたりで和歌山県が三大産地の生産量を追い越すほど急速に発展。昭和の時代に突入し、メリヤス生地の生産地として和歌山県はすっかり定着して、工場も軌道に乗り出し始めた頃に、大きなピンチが訪れる。

「先代から聞いた話なのですが、第2次世界大戦が始まり物資不足に陥った際、軍に機械をすべて取り上げられてしまったらしいんです。周りでは隠し持って没収を逃れた人もいたらしいのですが、うちの先々代は隠し事ができない正直物だったらしく、工場のすべての機材を明け渡してしまったらしいんです。ですが戦後は日本でさらにニット製品の需要が高まったのが幸いし、生地生産の依頼が殺到して40年代後半には国産の吊り編み機が大量に導入され工場も持ち直したらしいんです。」

戦後になるとファッション自体の転換期を迎えスウェットやTeeシャツなど、これまで作っていた下着以外のアイテムでのメリヤス地の使用が激増。それに伴い、こなしきれないほどの大量な発注がやってきて、吊り編み機はフルで稼働し続けた。そんな国内での生産需要がピークに高まった1970年代から80年代の大量生産時代に、メリヤス産業にある革命が起きる。それは吊り編み機生産の収縮を告げた時代の転換期であった。

1つの契約で何千反というほど今では考えられないような量の発注もあった1980年代は、質よりもとにかく量が求められていました。そんな時代に高速でニットを編める丸編み機であるシンカー編み機が誕生したんです。シンカー機は、吊り編み機が1m編むのに1時間ほどかかるのに対して、同じ時間で24mも編み上げてしまうほどの性能差。その生産効率の良さから多くの工場がシンカーに乗り換えて、吊り編み機は衰退の一途を辿りました」。

スピードのみならず多色の糸を使って編める仕様や機械自体のメンテナンスのしやすさ、なによりコストの削減など多くの点で大量生産時代にマッチしたシンカー編み機は、あっという間にメリヤス産業の常識を塗り替えた。工場も発注する企業もシンカー機へと移行していく中で、それでも「カネキチ工業」は吊り編み機での生産を続け、未来を模索していた。

「シンカー機の登場で吊り編み機での生産は厳しい時代が続きましたが、そんな中でも、吊りニットの独特な風合いを気に入り小ロットでも発注を続けてくれるブランドやデザイナーさんも、ありがたいことに少なからずいたんです。これまでの大量生産時代は企業の発注に任せて生産を続けるのが精一杯でしたが、これからは自分たちが吊り編み機で作る生地の魅力をしっかり理解し、発信していかなくてはならない。そう意識を転換して1990年代以降からは生地サンプルの開発を始めて、吊り編み機の新たな可能性を模索しました。今では開発した編み地のパターンは3000以上あります。それでもまだまだパターンを生み出せるほど無限の可能性があって、開発した生地を自分たちから発信することで、ものづくりにこだわるブランドやデザイナーさんの目に止まり、また徐々に吊り編みならではの魅力が浸透し始めて、今に至っています」。

カネキチ工業株式会社

大正9年創業。和歌山市紀三井寺に工場を構え吊り編み機 でニット編み生地を生産し続けるメリヤス工場。伝統的な
生産方法を守りながら新たな生地開発にも力を入れ、今 の時代にもあった吊り編みの魅力を発信。また、今や減 少し続けている編立職人の育成にも力をいれ、吊機での 技術やノウハウの継承にも力を注いでいる。

Photo : Kazufumi Shimoyashiki
Text : Yuichi Samejima

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大正時代に一大産地へと成長。 メリヤスの街と呼ばれた和歌山県。

スウェットにTeeシャツ、ソックスなど、今や私たちの生活には欠かせない平編みのニットアイテム。でも、じつはここ日本においてニットアイテム普及の歴史は欧米諸国と比べると浅く、およそ100年前。大正時代にニット生地の量産を可能にした吊り編み機がヨーロッパから日本へと渡ってきたことが始まりである。その当時からすればかなり革新的だったこの機械で、いち早く生地の生産に取り組んだ場所のひとつが和歌山県であった。

日本では平編みのニット生地の総称として“メリヤス”という言葉をよく耳にするが、これはポルトガル語やスペイン語で靴下を意味する“メイアシュ”や“メディアス”という言葉をもじったものらしい。伸縮性があり大きくも小さくもなることから“莫大小”と漢字表記をされることもある。和歌山市街を抜けて車で20分ほどの場所にある、国指定重要文化財の菩薩像が安置された観光名所のひとつ、紀三井寺の周辺には“メリヤス”という言葉を冠した通りがある。このエリアはかつて多くのニット工場が軒を連ね、生地を運ぶトラックが狭い道をひっきりなしに走っていたことから“メリヤス通り”と呼ばれ、県はおろか日本のニット生地生産の大半を担った重要拠点でもあった。そう教えてくれたのは大正9年からこの土地にメリヤス工場を構える「カネキチ工業」4代目代表の南方仁太郎さん。

「僕がまだ子供だったときは、この紀三井寺周辺は多くのメリヤス工場が稼働していて、住み込みで働く人たちのための社宅もたくさんあったので、近所の人のほとんどは工場で働いている人たちでした。今もうちを合わせて数軒大きな工場は残っていますが、その昔と比べればかなり減ってしまい街の様子も少し変わりました。とはいえメリヤス工場以外にもこの辺りには古くから続く水飴工場や、春に満開となる紀三井寺のきれいな山桜など昔から変わらない風景もたくさん残ったいい場所ですよ」。

南方さんに車で街案内をしてもらいながら工場へと向かう道中、昼飯にとおすすめのラーメン店に連れて行ってもらった。余談だが何を隠そう今、和歌山では柑橘類に並んで名産として人気なのがラーメン。話によると和歌山ラーメンには醤油のきいたさっぱり味と豚骨強めのこってり味という2つの系統があり、人気店ともなると全国からラーメンファンが足を運ぶほど盛り上がりをみせている。今回食べた「丸三」も地元の人たちから愛される名店で、ガツンと香る豚骨醤油スープが癖になる味わい。また、どこのお店にもテーブルに巻き寿司と酢締め鯖の早寿司が置いてあるのが和歌山ラーメンならではのスタイル。

「和歌山ではラーメン屋に早寿司が置いてあるのが当たり前で食前にひとつ、麺を食べ終わった後にスープのお供にひとつと食べていましたね。僕の持論ですが最近、お店の暖簾に和歌山ラーメンと書いてあるお店が多いですが、地元の人が好きな名店は「丸三」のように特に和歌山ラーメンとは謳っていない気がします」、とは南方さん。

話は逸れたが和歌山ラーメンを満喫して、いよいよ本題の工場へ。2020年で創業100年を迎える「カネキチ工業」は、吊り編み機が日本へとやってきた初期から機械を導入してニット編み地を生産する、歴史あるメリヤス工場である。特筆すべきは現在でも伝統を貫き、吊り編み機を使用して生地を生産し続けている、今や日本では数少ない貴重な工場であること。その吊り編み機でしか得られない生地の風合いは、今でこそデザイナーの石川俊介さんをはじめ、服作りに携わる多くの人を魅了しているのみならず、着る人たちにまで吊り編み機ならではのよさというのは浸透している。だがその仕上がりの良さが改めて認知されるまでの道のりは、決して平坦なものではなかった。そんな工場の歴史について南方さんと取締役の岡谷義之さんとお話していると、吊り編み機が辿ってきた歴史と深くリンクする興味深い話がたくさん飛び出してきた。

さまざまな時代の流れを乗り越えてきた、 「カネキチ工業」と吊り編み機の歴史。

大正9年に「カネキチ工業」へ、スイス製の吊り編み機がやってきた当初、主な生産は肌着となるニット生地。その昔、よく年配の人が着ているのを見たラクダ色の下着に使われていた生地だ。南方さんから見せてもらった和歌山県にまつわる歴史をまとめた本によると、大正初期は東京、大阪、名古屋がメリヤス生産の中心を担っていたが、「カネキチ工業」の創業年あたりで和歌山県が三大産地の生産量を追い越すほど急速に発展。昭和の時代に突入し、メリヤス生地の生産地として和歌山県はすっかり定着して、工場も軌道に乗り出し始めた頃に、大きなピンチが訪れる。

「先代から聞いた話なのですが、第2次世界大戦が始まり物資不足に陥った際、軍に機械をすべて取り上げられてしまったらしいんです。周りでは隠し持って没収を逃れた人もいたらしいのですが、うちの先々代は隠し事ができない正直物だったらしく、工場のすべての機材を明け渡してしまったらしいんです。ですが戦後は日本でさらにニット製品の需要が高まったのが幸いし、生地生産の依頼が殺到して40年代後半には国産の吊り編み機が大量に導入され工場も持ち直したらしいんです。」

戦後になるとファッション自体の転換期を迎えスウェットやTeeシャツなど、これまで作っていた下着以外のアイテムでのメリヤス地の使用が激増。それに伴い、こなしきれないほどの大量な発注がやってきて、吊り編み機はフルで稼働し続けた。そんな国内での生産需要がピークに高まった1970年代から80年代の大量生産時代に、メリヤス産業にある革命が起きる。それは吊り編み機生産の収縮を告げた時代の転換期であった。

1つの契約で何千反というほど今では考えられないような量の発注もあった1980年代は、質よりもとにかく量が求められていました。そんな時代に高速でニットを編める丸編み機であるシンカー編み機が誕生したんです。シンカー機は、吊り編み機が1m編むのに1時間ほどかかるのに対して、同じ時間で24mも編み上げてしまうほどの性能差。その生産効率の良さから多くの工場がシンカーに乗り換えて、吊り編み機は衰退の一途を辿りました」。

スピードのみならず多色の糸を使って編める仕様や機械自体のメンテナンスのしやすさ、なによりコストの削減など多くの点で大量生産時代にマッチしたシンカー編み機は、あっという間にメリヤス産業の常識を塗り替えた。工場も発注する企業もシンカー機へと移行していく中で、それでも「カネキチ工業」は吊り編み機での生産を続け、未来を模索していた。

「シンカー機の登場で吊り編み機での生産は厳しい時代が続きましたが、そんな中でも、吊りニットの独特な風合いを気に入り小ロットでも発注を続けてくれるブランドやデザイナーさんも、ありがたいことに少なからずいたんです。これまでの大量生産時代は企業の発注に任せて生産を続けるのが精一杯でしたが、これからは自分たちが吊り編み機で作る生地の魅力をしっかり理解し、発信していかなくてはならない。そう意識を転換して1990年代以降からは生地サンプルの開発を始めて、吊り編み機の新たな可能性を模索しました。今では開発した編み地のパターンは3000以上あります。それでもまだまだパターンを生み出せるほど無限の可能性があって、開発した生地を自分たちから発信することで、ものづくりにこだわるブランドやデザイナーさんの目に止まり、また徐々に吊り編みならではの魅力が浸透し始めて、今に至っています」。

カネキチ工業株式会社

大正9年創業。和歌山市紀三井寺に工場を構え吊り編み機 でニット編み生地を生産し続けるメリヤス工場。伝統的な
生産方法を守りながら新たな生地開発にも力を入れ、今 の時代にもあった吊り編みの魅力を発信。また、今や減 少し続けている編立職人の育成にも力をいれ、吊機での 技術やノウハウの継承にも力を注いでいる。

Photo : Kazufumi Shimoyashiki
Text : Yuichi Samejima

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