旧ソ連からアメリカに亡命した二人のジャーナリストがロシア語で著した『亡命ロシア料理』。
1987年、ピョートル・ワイリとアレクサンドル・ゲニスによる共著としてアメリカで刊行された本書は、食文化を通して文明批評を試みた一冊である。1996年に邦訳がなされたものの、長く入手困難な状態が続き、初版から18年を経た2014年11月、新装版が刊行された。
本書のスタンスは序盤の一文に集約されている。
「人間を故郷と結びつける糸には、じつに様々なものがなり得る。偉大な文化、強大な国民、誉れ高い歴史。しかし、故郷から伸びているいちばん丈夫な糸は、魂につながっている。いや、つまり、胃につながっているということだ。」(p8「素晴らしきこの魂の高まり」)
本書を読み進めるにしたがって、これが政治的イデオロギーへの皮肉ではなく、著者たちの信念であることが分かってくる。
我々の根源的な営みである食事を切り口に、各地域の文化を比較し、人間の有り様を食習慣から論じる『亡命ロシア料理』。難解で取っ付きにくい本のようにも見えるが、それぞれ4、5ページで構成された全45章に「キノコの形而上学」「女性解放ボルシチ」「なまけ者のためのペリメニ(注・ロシア風水餃子)」「ボトヴィニヤ(注・ロシアの冷製スープ)攻防戦」「メンチカツの名誉回復」といったユニークなタイトルが付けられ、いずれも食へのこだわりが文明論と結びつく。料理の話が多方向に発展していく様が極めて刺激的な本書。どの章でも、より一層食欲をそそる形でテーマを広げる展開が、ワイリとゲニスの力量を証明している。
「アメリカ合衆国のような南国に独自の冷製スープがないとは、奇妙なことだ。ここではせいぜい、スペインのガスパッチョか、ベラルーシ・ユダヤ風のビートスープくらいにしかありつけない。だから、この未開の地を自分の手で変えていかなければならないのだ。(p79「ボトヴィニヤ攻防戦」)」
「フロンティア・スピリット」の神話を「冷製スープ」の有無で説明するのは、暴論に違いない。だが、著者たちは「食道楽の見地から世界を見ること。それがわれわれの世界観だ。(p76「キノコの形而上学」)」と言って憚らない。これでは開拓者の誇りを抱く人々も怒るに怒れない。
また、邦訳の版元が「実践レシピ付料理エッセイ」と紹介するように、本書では、シチーやブイヨン、ビーフストロガノフから野菜ジュースに至るまで、様々なレシピが詳述され、読者が料理と食事を楽しむヒントが散りばめられている。二人の著者は、世界各地で歴史に培われた料理の方法を手掛かりとして、文化を“実践的に”解き明かそうとする。彼らにとって、料理は発想の源泉である。
「バレエ、文学など高尚な芸術のどれを取っても、料理ほど、空想や変形の自由がきくものはない。それに、料理という芸術ほど人を自己表現に誘う芸術も他にはない。(p174「毎日がお祭り」)」
旧ソ連からアメリカへと亡命を遂げた二人の著者による『亡命ロシア料理』。本書は、我々に豊かな食生活を提案し、自らのアイデアを最大限活かしたライフスタイルへの“亡命”に誘う、二人の“食道楽主義者”による魅惑的なプロパガンダである。
『新装版 亡命ロシア料理 』
未知谷刊
ピョートル・ワイリ、アレクサンドル・ゲニス著
沼野充義、北川和美、守屋愛訳
Text : Hiroyuki Motoori