山からはたくさんの文学や芸術が生まれてきました。とくに日本では明治の中ごろ、山仕事や信仰のための登山ではない近代登山がヨーロッパから輸入され、山についての書物や写真が多数、制作されるようになります。冠松次郎と穂苅三寿雄は山岳文学・山岳写真の先駆けとも言うべき存在。その二人が挑んだ黒部渓谷と槍ケ岳(通称「槍」)での彼らの足跡を追う展覧会が開かれています。
冠松次郎は明治16年(1883)、東京の裕福な質屋の息子として生まれました。19歳頃から登山を始め、28歳のときに黒部と出合います。厳しい自然で知られる黒部はそれまであまり人が立ち入ったことのない秘境でした。
冠は大正7年(1918)から本格的に黒部の渓谷への探検を始めます。大正9年(1920)には黒部川下廊下(「廊下」とは河原がなく、川の両岸が切り立った崖になっているところ)の遡行をめざしてベテランのガイド、宇治長次郎に案内を頼みました。壁に張り付くように移動したり、自分たちで簡素な橋をかけながら谷を進み、苦労の末に、黒部川に左右から滝が流れ込む交差点の十字路のような「廊下の十字峡」(後の「十字峡」)や、近づくことが難しく、「音はすれども姿は見えず」と言われた「劔沢大滝」まで行くことに成功します。こうして生涯を黒部の探索に費やし、多くの著書や写真を残した冠は自らを「谷狂」と呼び、人々からは「黒部の父」「黒部の主」と呼ばれました。
一方の穂苅三寿雄は明治24年(1891)、現在の長野県松本市生まれ。明治42年(1909)に上高地に、大正3年(1914)に初めて槍ケ岳に登ります。その3年後の大正6年(1917)には槍沢のババ平に山小屋を建設しました。3000メートル級の山に登ろうという人もまだ少ない当時、山小屋を経営しようという発想はとても斬新なものでした。なお開業当初、山小屋には「アルプス旅館」という名前がつけられていましたが、翌年には「槍沢小屋」と改名しています。この頃から独学で写真を学びながら大槍小屋、槍ケ岳肩ノ小屋(現・槍ケ岳山荘)を開業し、地の利を活かして四季折々の槍ケ岳の表情を撮り続けます。霧や雪の中から頭を出す岩山や、急峻な岸壁を命綱一本で上って行く登山者の姿などは、彼でなければ撮れないものだったでしょう。
穂苅は槍ケ岳を開いた播隆上人の研究でも知られています。播隆上人は文政11年(1828)、初めて槍ケ岳の頂上に登り、仏像を安置、他の人も頂上まで登って念仏を唱えることができるよう、鉄の鎖を設置して登山道を整備しました。また穂苅は昭和14年(1939)、東京山岳写真会(現・日本山岳写真協会)に創立会員として参加しました。まさに日本の山岳写真の祖ともいえる人物です。
彼らが黒部渓谷や槍ケ岳を撮影し始めてから1世紀あまり。槍ケ岳には新しい山小屋や登山ルートが開かれ、多くの人に親しまれる場所になっています。その澄んだ水の流れやとがった山頂の美しさは今も人々を魅了してやみません。冠と穂苅がとらえた黒部や槍の厳しさに改めて畏敬の念と憧れを覚えることでしょう。
「黒部と槍 冠松次郎と穂苅三寿雄」は5月6日まで、東京都写真美術館で開かれています。
Text : Naoko Aono